昭和41年02月27日 夜の御理解



 「信心の喜び」と。ただ教えを頂いて、その教えが成程有難いのですけれども、その教えを本当に行じさして貰う所から、生まれて来る所の体験、いわゆるあれもおかげ、これもおかげと、おかげを身近に体験しなかったら、私は本当の信心の喜びというものは湧いて来ないと思う。どんなにあのう素晴らしい教えを頂いて、頂いておる時、それは成程有難いんです。
 けどもそれは、その本当に矢張りおかげを、おかげを身近に受けて、いわゆるおかげを受けてと云う事は、身近に神様の働きを頂いて、初めて有難いというものが頂けるのである。身近に神様のおかげを感じられなくなったら、その喜びというものは薄いものになってしまう。本当に、あの例えば(?)でもですね、もう神様の働きというものを、こう感じさせて貰うと。
 今日私あの、ご造営の現場の所に、今日皆さん6、70名の方が集まって、今日のお湿りの中に、砂運びが御座いました。勿論、あのご造営の中で御座いますから、外に若い方達が出て、おる人達が少し濡れておりましたけど。もうそれを、(?)で、ずうっとしよると見るならもう、ありゃもういち様ですねぇち言うちから女も男も、年寄りも若い者も、同じ力です。
 同じものを運ぶのですから、一人でもその力を抜く訳にはいかん。その一生懸命のその当りのとこにちょうど、私行き合わして、それが2、30分致しましたら、もう済みました。ですけれども、本当に私、あの、2、30分遅れて行っとったら、あの皆さんの一生懸命のあの御用奉仕振りというものは見せて頂く事が出来なかったと。見せて頂かなかったら、「ここがこんなに綺麗になりました」とこう言われただけでは、矢張り感激も薄いけれど、本当に皆さんが一生懸命にやっておられるのを見せて頂いて、初めて、その一つの感激が心の中に頂けれるのです。
 矢張り、そこに例えば、時間的なお繰り合わせを、頂かなければできる事じゃないでしょう。そう云う様なおかげをです、私共は身辺の上に、日常の中に生活の中に、感じれるところの、お繰り合わせというものを、頂けなかったら、本当に私は「真に有り難い。」と云う様なものは、生まれて来ないと思うですね。信心の始めの頃、教えを、それこそ今まで聞いた事のなかった。
 天地のご恩徳とか、天地の道理をあおぎ聞かせて貰い、教えを頂かせて頂く、その信心のなかった生活から、信心の生活にすうっと、こう、ならせて頂いただけで、確かに神様は喜びを与えて下さるですね。ですから、その、初心の時には、非常におかげを受けるというのは、もう喜びが生き生きとしておるからなんですね。ところが、それが3年経ち5年経ちする内に、おかげは頂いて行っておっても、おかげの方が、その神様を身近に感じられなくなって来ると。
 おかげの道理は分かっておるけれども、有難いと云う事は、まぁ体験しておるけれども、実際におかげというものを惟に感じる事が出来ない。いわゆる、おかげが、いわゆる、段々希薄なものになって来る訳です。例えて言うならば、鶏でもそうでしょう。毎日卵を生んでおれば、やっぱり人間が大事に致します。それが、今度は油がまわったりしてから。もう餌を食べんごとなりますと、「あら、こん鶏は油んまわっとるばい。
 卵ん生まんごとなったけん、もう今度つぶす時はこれから先つぶそう」ちゅうごたる結果になる様なもんです。私共はです、日々活き活きした本当生きた卵の様な、喜びというものを生みなしていけるれ所の信心。ですから、もう喜びを忘れたけんで、それこそ歌を忘れたカナリアじゃないけども。もうそれこそ、鞭で敲いたり殺したりはしなさいますまいけれどもね、ひねったり、潰したりしなさいますまいけれども、確かにおかげが止まる事だけは間違いないです。
 身近にお神様のおかげをおかげと感じ切らなくても、現れて来ないです。その人達の上には。いうならば、もう毛をむしられる様なもんです。本当にここに信心さして頂いてです、段々信心が高尚になって、何年何十年て続いておる様な人達、尚更の事、ここんところ一つおかげを頂かなければいけません。んなら、それは私共はですね本気で一つ、例えば初心の時の気持ちを忘れなかったらと云う事。全ての教導事に言れておりますけども、信心もそうです。教えを本気で行じさせて貰う。
 本気で実意丁寧にならせて頂くと。いわゆる実意丁寧神信心が本当に出来ますとです、神様は必ず、その必ずおかげを見せて下さるです。身近におかげを感じる事が出来るです。成程、神様の御守護の中にあるんだなと云う事を感じる事が出来るです。だから、そこに活き活きとした、いわゆる卵を生みなす事が出来るのであり、活き活きとした喜びを感じる事が出来るんです。
 神様間違いないなぁと、そういう間違いない働きの中におかげを頂いておると。「信心しておれば、一年一年有り難うなってくる」と仰る。本当にその一年一年有り難うなって行く所のおかげを頂かなければ、いくら高尚になりましてもですね、実意丁寧を欠いて、教えを本気で行じる事をせずして、ま、例えて言うなら、それとは反対に、分かる事だけは分かっとってもです。 
 行の上にそれを現さなかったらです、神様は決しておかげは下さいません。それこそ、「あいたこら、もう油が回って来たばい。これは卵生まなくなった。」といやぁ、そこに矢張り神様からそういう意味合いにおいて、目をつけられる。神様からその目を付けられる様になったら、もう駄目です。だから、長年の言わば信心が高尚な人程です、例えば、喜びが、更な、大きな深い喜びが生まれて来なければならんのに、その喜びが、段々希薄なものになって行くのは。
 教えを本気で、私は行じて、日々有り難うなって行くと云う事にです、実意丁寧を欠いておるからだと、私は思います。皆さん本当に活き活きとした卵を生み続けさして貰う。私は精進、努力、そこにはいよいよもう「うちのこの鶏ばっかりは、もう本当にそれこそ大事な鶏」として、やっぱり人から、その鶏が大事にされます様に、有り難い鶏としてです。毎日毎日卵を生むね。
 どうぞま一つ、まおかげを頂いてから、喜びのしるしを日々本当に生みなさして頂ける為に、どうでも実意丁寧を本気で、教えを行じさして貰う。又それをそれを受けられなくなるのは、裏と表の心を持たず、「口で真を語りつつ、心に真のなきこと」と言った様な所にです、焦点をおいて、いよいよ信心がこうしょうになっていくと同時に教えも(?)喜びもまた、良い喜びが生みなしていけれる、活き活きした、みずみずしい信心を求めていかなければならん。
 「一年一年有り難うなって行く」と仰るのに、一年一年有り難うなって行く人が非常に少ない。それは、神様がです、もう、油が回っておる事、いうなら卵を生まなくなったからですね、もうこりゃ、この次にはもうあれをいっちょ締める時にゃあれを締めようかと云う様な、言わば(?)を剥ぎよる証拠ですたいね、新たに卵をまた生みなさして頂いて御覧なさい、いわゆる、また神様の又思い、見方がまた変わって来る。そこから喜びの卵が生みなされて行く。
 もうこれは信心ばかりはねもう、うぶも、初心な物も、高尚な物もないです。分け隔てはないです。どんなに大先生と言われる様になってもです、もう活き活きとした喜びを生みなさなくなったらです、もうその人は必ず羽毛をむしられる事は間違いないです。それでは詰らんでしょう。一つ、喜びの卵を生みなさしていけれる基である所の、どの様な事の中からでも、自分の頂く餌を見出していけるだけの努力、精進が必要ですね。
   どうぞ。